コラム

#16 不吉な予感、憂鬱な時代の中で
境真良(独立行政法人情報処理推進機構参事 / iU准教授)

2022年7月1日

 ウクライナ戦争には不吉な予感がする。
それは、グローバリゼーションが当たり前になりつつあり、市場での顧客満足力、顧客誘引力を物差しとした影響力競争を至極当然と受け入れつつあったコンテンツ産業界にとって、国家との関係という難しい要素が再び頭をもたげる予感である。

 国家の要求、或いは社会の要請(それはどのように具体化されるのかという大問題はさておき)が、社会的影響力を大きく有するようになったコミュニケーションプラットフォームを突き動かし、その上で行われるコミュニケーションに干渉するという事態は、散発的だが、継続的に起きていた。表現の自由や通信の秘密を憲法的価値として守ることを謳う我が国では比較的反発が強かったと思う。しかしながら、公然通信の表現であることや、表現の自由といえども所詮は他の人権との比較衡量されるという事情の中で、公的規制の追加には消極的でありつつも、プラットフォーマの干渉は一定程度是認される方向に進んできたように思う。
世界に目を向けると、我が国に強く影響を与えたのは、米国におけるフェイクニュース対策の動きであったろう。ロシアや中国が、米国のオープンなコミュニケーションプラットフォームを活用し、米国大統領戦に影響を与えるべく、敢えて不正確な情報を流したという「情報攻撃」スキャンダルは、米国の表現規律論に大きく衝撃を与えた。直接の「情報攻撃」対象になっていなかった我が国では、ダイレクトな影響は少なかったと思う。だが、それでも、我が国の場合は、災害時やコロナ禍という災害とも同視しうる環境の中で、根拠に基づく正確な議論や科学的な議論がなされるべきという基線の中で、思い込みや非科学的な見解に基づく言説をさも科学的であるかのように喧伝する表現への対策という形で、フェイクニュース対策が必要であるという考え方は、コミュニケーション環境に関する制度に対する議論に静かに影響を与えてきたように思う。

そこに、戦争である。

 ウクライナ戦争において特筆すべきことは、グローバルなSNS空間での現場からの情報発信という新たな空間の登場と、映像加工技術の飛躍的進歩がもたらした「実感」レベルでの情報真正性の疑義だろうと思っている。
戦争は、ウクライナの戦地から多くのメディアが報じる情報と、現地の市民が発信する映像、情報を交えた現場情報によって世界に視聴されている。ロシアは、このメディアの大宗がウクライナ政府に取材を公認された西側メディアによるものであるため、これを西側メディア(企業)によるフェイクニュースだと主張するようになった。このこと自体は近代戦争ではよくある構図であり、特筆には値しない。しかし、同時に、如何にこの情報が捏造されたものかを示す情報を、マスメディアだけでなくグローバルなSNS空間に展開し始めたこと、そしてこの情報が巧妙に加工された映像、画像を交えたものであったことは、今次戦争に特徴的なことだといってよいと思う。
動画上の人の顔を入れ換えるディープフェイクに代表されるフェイク映像加工技術は、深層学習による画像加工技術の進展とともに飛躍的に進歩し、視聴者にとって一見したくらいではそれを見破ることは容易ではない。そして、我々は最初に目にした映像、画像によって作られた認知に認識や理解をフレーミングされる傾向がある。一度流布してしまった認識や思考のフレームを修正することは容易ではない。更にいえば、そこにSNSの宿命ともいえるエコーチェンバー現象が働き、言論空間の分断化が加速される。

 ここには2つの点での対処が進むことを筆者は期待している。

 一つはリテラシーの次元に拠るものだが、我々がもっと判断に慎重になることである。「百聞は一見にしかず」と言われるほど視聴覚情報の説得力は強いものだが、こうした機微なテーマに関するものは、グッとこらえて、せめて、一つの現象を検証するにあたり、それを記録した複数の出自の異なるコンテンツを確認して初めてそれをまず正しいと是認する、というくらい慎重な態度をとること。それまでは、本当かどうかわからないと留保をつけて認識することである。
今一つは、映像や画像の加工を検証する技術開発である。ディープフェイク動画については、瞬きの確認から真正性検証を行う事が可能と言われている。もちろん、真正性検証の鍵がわかれば、フェイクを作る側はそこへの対処をするわけだが、明らかにフェイクの生成コストは上がる。鼬ごっこではあろうが、技術的な検証可能性を高め、要すればそれを施してチェック結果を付することなどは、表現の自由や通信の秘密の侵害にはあたらないとする制度的対応を講じてもよいように思う。

 さて、話を「情報攻撃」に戻すと、手法論を度外視すれば、敢えて言うなら、「情報攻撃」はウクライナもやっているということは指摘したいと思う。
ウクライナの最大の戦略は、大統領自らがグローバルに直接情報発信を行うことである。よく知られていることだがテレビでも活躍したコメディアン出身であるウクライナのゼレンスキー大統領にとってみれば、カメラを通した見事な表現力は、彼ならではの能力であり、この場合は比喩ではなく、武器といえよう。それならばプーチン大統領も同じことをしたらどうかとは思うが、そこはKGB出身者としては不得手なところなのかもしれないし、それ以上に、国境を越えて軍を動かし領土を侵略した国であるという立場が、説明の機会すら与えてもらえない圧倒的に不利な状況をもたらしているのかもしれない。
ゼレンスキー大統領というスターが諸国の世論を動かす、という構図は、戦争とコンテンツ産業の関係では、嫌なくらい古典的なメカニズムを思い起こさせる。それゆえ、かつて大日本帝国は北東アジアにおける精神兵器として国際スター・李香蘭を生み出したわけだし、韓流ブームは韓国の一部からは韓国の政治的主張を国際社会に認めさせるための文化戦争のように受け止められ後押しされている向きもある。当の李香蘭=山口淑子さんやBTSのメンバーなど「中の人」たちにしてみれば遺憾なことではあろうけれど。

 しかし、これが10年代にコンテンツ産業の重要な産業基盤として育ってきた、SNSや動画配信といったグローバルなコンテンツ視聴プラットフォームの成長に水を差すものであるのは間違いないように思う。
振り返れば、21世紀は世界のコンテンツ市場が一体化する大きな流れの中にあった。インターネットの普及とブロードバンド化、そしてその上でのグローバルな映像、画像の視聴プラットフォームの創出。それと平仄を合わせるように、各国の外国コンテンツ視聴規制は退潮し、第二次大戦前の支配・被支配の関係を背景とした韓国の対日コンテンツ規制もかなりの程度希薄化された。もちろん、その過程の中にはリアル環境、ネット環境双方での海賊盤の蔓延という忌むべき事象もあって、諸手を挙げて賛美するわけにはいかないとしても、グローバルな市場の一体化に向けて大きく前進してきたことは事実である。
しかし、である。振り返れば、これは冷戦が終結し、世界が自由貿易体制を認め、各国が兵器で争うのではなく、経済で、そして文化で(文化を財物と考えれば、経済に一元化して語れるかもしれないが)互いに競うという相互信頼、相互融和が基盤にあっての話であった。しかし、冷戦が「<西側>の<勝利>」、「<東側>の<敗北>」に終わった後も、東側諸国の多くはそのまま存続し、現在もこの競争の中にある。そこで、この一体化の局面で捲土重来を目指す国もあれば、この一体化そのものを西側の侵略や占領だと考える国もありうる。やや粗い整理をすれば、かつての東側諸国は一般的に権威主義が根強く、民主主義が脆弱だと言われる。民主主義を最上と考えるイデオロギーは、確かに、この東側諸国に国のあり方、政治文化さえも変更を迫っている側面があろう。そう見れば、この見方に一抹の正当性はあるのかもしれない。
中国は現在、世界経済における潜在力(P.ケネディの試算によれば、歴史が始まってこの方、中国が統一されている場合には、世界各国のGDPランキングの第一席はほぼ常に中国の指定席であった)を発揮して経済発展を続けているが、いわばこの経済と文化の競争で勝利がほぼ確実であるその中国でさえ、マスメディアへの規制、ネット上のグローバルプラットフォームへのアクセス規制を通じ、このコンテンツ市場の一体化には強固に抗っている。その背後には、この相互信頼、相互融和という理想は、こうしたより基層のあり方を変革させようとする外からの圧力、いわゆる和平演変の攻撃を隠蔽するものに他ならないという警戒心があり、何よりも自律性を尊ぶ一種の民族主義がそこに過敏に反応し、民族国家意識を通じて国家主義を強化する構図がある(その時、自国がより脆弱な国内外の他民族の自律性を奪っているという視座には目を瞑るのだが)。

 この「東西冷戦の延長戦としてのウクライナ戦争」という視座は、ロシアや中国の政府が西側、西側と繰り返し言及することに、皮肉にも裏打ちされている。だが、そこからこの一体化への素朴な抵抗感だけを抽出するなら、東西冷戦での「敗戦」の記憶に悩まされるロシアや中国に限ったものではなく、「西側」に属する多くの国々も感じているものなのかもしれない。
韓国では、未だに旭日旗(及びそれに類似した)デザインを糾弾したり、日本語を公式の場から排除する力が根強い。我が国では、表現に関する社会的許容基準が国によって異なる中で、主として米国由来のコンテンツ視聴プラットフォームが米国基準で他国の視聴コンテンツを選別するのではないかという根強い危惧が表明される。利用者無差別な機械的、一元的処理を効率化の上で当然のことと考えやすいインターネット上のプラットフォーマが、結果としてこうした国ごとの情報流通空間の壁を破壊する動きの中で、こうした恐れは故なきことではなく、そういう意味で、中国流のやり方に如何ばかりかのシンパシーを感じる向きは「西側」の中にも存在するだろう。
この中国流の、インターネット上のサービスレイヤでの市場分断を、プーチン政権は遅れて断行した。そして、その背後には国家主義に因る、国ごとの情報空間を独立に保ちたい、という欲求がある。それが情報空間の一体化への抵抗と十把一絡げにされてしまう時、ロシアや中国のフェイクニュースや文化兵器を排するためとして、グローバルプラットフォームに国家が敵対的に対峙する事態、少なくとも外国製コンテンツを国家の目線で選別しようとする事態を、「西側」の国々の中でも誘発してしまう危惧もなしとはしない。
グローバリゼーションを素朴に願う気持ちとしては残念ながら、システムの次元における、インターネットを構成する設備がどの国の機器が発したパケットであっても一定のルールに従い統一的に扱うという一体性と同じレベルで、コンテンツやメディアの次元においても、国を跨いで成立したコンテンツ視聴プラットフォームがどの国の視聴者も同じルールで取り扱ってよいという一体化が進むとは素朴には思えなくなっている。

 しかし、ここで話したようなことを超えてより極端な考え方は、少なくとも「西側」では上手く排除できたことに安堵している。
ここで言っているのは、ウクライナ政府とICANNウクライナ支部がICANN本部がロシア、ソ連のドメインネームの名前解決停止を含めたインターネットからの切り離し要求が拒絶されたことをいう。ICANNプレジデントは、もちろん、ロシアの侵略行為を支持したわけではなく、遺憾の意を示した上で、インターネットは政治的理由でその運用を左右してはならず、中立性を維持するとしてこの要求を拒否した。
他方、ロシアでは、プーチン大統領が敵対国の著作権など知的財産の保護を停止するという目を疑うような法案が施行されている。コンテンツ産業の立場からは、その事業環境の最基層を破壊する法案であり、正気の沙汰とは思えないし、より大きく通商貿易一般の目線でも、少なくともTRIPsに違反し、ようやく2012年に加盟したWTOを脱退せざるを得ない事態が視野に入っている。これに比べれば、「西側」のロシアへの対応はかなり冷静だとみてよい。
だが、これは「西側」がロシアに対して圧倒的な優位にある、という前提に立っているだけではあるまいか。ICANNプレジデントがウクライナからの要求を拒否するレターには、同時に、むしろインターネットに接続されている状態こそがロシア国内にロシア国内のプロパガンダとは異なる世界の見方、ウクライナ発の情報などを届けられ、戦争終結の助けになるという論理が附言されている。これは一見、説得力があるのだが、その背後には、「西側」からロシアへの、ロシアから見れば情報攻撃というべきメカニズムが含まれていることは気になる。
つまり、インターネットというインフラレベルではさておき、それ以上のレベル、つまりグローバルなコンテンツ視聴プラットフォームのレイヤ、コンテンツのレイヤでは、この各国の国際影響力競争が、情報戦争の一局面と見なされる可能性を示唆しているのではないか。中国から始まったグローバリゼーションへの抵抗が、より広く、「西側」の国々まで巻き込んで再構成され、国際ルールとして公認される余地を暗示しているのではないか、と考えてしまう。

 さて、では、この局面において日本の各プレイヤーはどう振る舞うべきなのか。
個人的には、コンテンツ産業やメディア産業においては、徹底的に政治的空気を排除してよいと考えている。そして、現状の日本のコンテンツにはかなりの程度それが実現できているしと思うし、仮に今後、日本の直接的国益の伸張や、国内の統合のための作品作りを推進すべく、国内において政治的圧力がかけられる事態が起きる(さすがに誘導政策や内容規制が政府から直接的に行われることは考えづらいと思うが)としても、毅然と拒否してよいのではないか、いや拒否するべきではないか、と思う。
もちろん、それでも、日本のコンテンツの端々に日本の国家的意思を見出し、外野が勝手に応援したり排除したりする動きは止まることはないだろう。日本の制作側にその意思がなくても、それは見る側が勝手に脳内で生み出すものであるし、牽強附会にそれを無意識に生み出す日本社会の思想傾向を糾弾することも可能であろうから。
それでも、こうした妄想ともいえる国家主義の暴走を乗り越え、世界中を一つにしていくのがエンターテイメントの力であり、それがコンテンツ産業の動力源である。
むしろ、この困難な時代に、この国家の自国社会の維持に名を借りた市場統制を統御可能なものにする方法をこそ、考えていきたい。
例えば、国家が自国社会に広く展開されるコンテンツの内容について、社会的に許容できないものを規制、排除することを認めるとしても、ロシアや中国が目指す国際社会の分断と、多くの国々が反感を持つ文化基準の押しつけとを峻別し、カテゴリ事の基準を導入することで、よりマイルドなグローバル市場の維持と更なる発展は目指し得ないものだろうか。そうした基準作り、ルールの遵守の仕組みを、それが破られて見直されていくことも含めて、社会的な産業システムに組み込んでいく方法について考えるべきではないだろうか。これに腐心していく方が、今後の国際社会のグローバル統合を主導する意味でも、そしてそこに最適なコンテンツ供給力を獲得するという意味でも、より積極的な対応なのではないか、と考える。

 それにしても、日本のコンテンツ産業にとってグローバル市場開拓が重要な意味をいよいよ持つようになったこの局面で、単一民族国家を神話的に奉ずる傾向のある日本にとっては、一番、起きてほしくないベヒーモスが起きてしまう予感に囚われてしまう。憂鬱な時代の空気を感じる。

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